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自分がディスレクシアかもしれないという話

この留学の前に、実は気になったことがあり、大学の保健センターで精神検査を受けました。その結果、ADHDの可能性が高いという結果が出ました。これに関しては後日お話ししますが、それを受けていろいろ調べたところ、極めて衝撃的な出会いをしました。これまでとこれからの人生観の変えるような出来事はいくつもありましたが、その急激度と衝撃度は本当にすさまじいものがありました。

それは、on dyslexia というブログに出会い、そして内容を拝見して、

自分がディスレクシアの可能性がある

ことがわかったことです。正確に表現すると、紹介されているチェックテストの点数が高く、ディスレクシアの特徴として述べられている事柄に、非常によく一致した、ということです。

ディスレクシアについては調べればいろいろと出てきますが、世間一般的には、読み書き障害といったり、学習障害といった言い方で捉えられますし、私も調べ始めはそうでした。

しかし、それはディスレクシアのある一つの側面を捉えたものであり、ディスレクシアは人間の愛すべき性質のひとつであるということを教えてくれたのが、on dyslexia というブログでした。

このブログを執筆している方は、ディスレクシアの子ども向けの英語塾を主宰されています。その実践的で先進的な取り組みもさることながら、生徒さんたちへの愛や、ディスレクシアという性質への愛と、それを一緒に楽しもうという取り組みに大変感銘を受け、感動しました。

この方の取り組みは、私の、「自分の思うままに好きなように生きたい」という思いと合うところがありました。そして、子どもたちや学生が、自分の好きなことを見つけて好きなように生きてほしいという思いとも一致しました。そのため、このブログでも応援の意味を込めて私の話をすることにしました。まず今回は、私がディスレクシアであろうことがわかった経緯から話していきたいと思います。

Summary

  • 私はADHDが傾向が強いことを知る
  • 発達障害で調べてたどり着いた on dyslexia で、ディスレクシア的特徴に非常によく一致することを知る
  • 具体的エピソード

きかっけ~自身のADHD傾向の強さ~

私は今まで、いわゆる「発達障害」と捉えられる事象とは無縁であると思い込んで生きてきました。実のところ私は日本で得られる学歴のうち最も高い部類のものをもち、それゆえ、周りからは秀才あるいは天才と言われてきました。そんな人間が「障害」をもつはずはないと。しかし、私本人としては、さまざまなコンプレックスを抱え、自分にはできないことも多々あり、周りの評価とは裏腹に「自分はバカだ」と思って生きてきました。自分自身の「バカである」という自己評価と、学歴や成績からくる「秀才・天才」という他人からの評価に、きわめて大きなギャップがありました。

とはいえそこまで悩まず生きてきましたが、大学教員となってさまざまなタスクをこなさなければならない立場となったことで、そうした「自分にはできない」ことが表面化してきました。最も致命的だったのは、マルチタスクができない、タスクの整理がでない、書類関連のタスクができない、という問題でした。

そこで、私は自分の生来の性質について、とても知りたくなりました。私はそもそもどのような精神構造をもっており、何が苦手なんだろうと。そう思い始めると動かないと気が済まない私は(今思うとこれもADHD的)、早速大学の保健センターで検査を受けました。すると、なんとADHDの可能性が高いという結果が出ました。

それまでの私のADHDへの理解としては、教室で座っていられず走り回るような感じのイメージで、普通に(思い返すと普通ではない)座っていた私とは関係のないものと思っていました。しかし、調べていくと、それはステレオタイプな動き回るイメージとは違う、脳構造に根差した、表面的なイメージではなく、より精神の深いところに根ざしたものでした。

そうなると私はむしろ心配というより興味の方が勝ってしまって、いろいろと調べ始めました。すると、ディスレクシアという単語に出会い、その流れで今回のブログに出会いました。

私のディスレクシア的性質

ディスレクシアに関する研究は、最も先進的なイギリス、アメリカでも2000年代に始まった比較的新しいものらしいです。アメリカでは、脳科学的見地や臨床研究的見地からディスレクシアかどうかを見極めるテストがいくつか考案されており、on dyslexia でもいくつか紹介されていました。そのひとつ、英国ディスレクシア協会 British Dyslexia Association による「大人のためのディスレクシアチェックリスト」を受けてみたところ、65点という数字がでました。これは中程度から重度のディスレクシアに相当するようです。

他にも、ディスレクシアを公言されている方との考え方の一致、高い空間把握能力、つながりを認識する能力、ストーリーを作る能力、未来を予測する能力、など、ディスレクシアの能力として紹介されているものを多く持っていました。

具体的エピソード:苦手なこと

書くこと

私は鏡文字になってしまうことはありませんが、一つの単語の中で語順をよく間違えたり、ひらがなであっても間違えたり、字が出てこないこともよくあります。

特にメモは極めて苦手です。例えば「16時に東京駅に書類を持ってくる」と電話で伝言されたとしましょう。しかし、聞いていると文字が全く出てこないので、メモにはかろうじで読める文字で「6 と し」と書くのが限界です。

「16じ とうきょう しょるい」と書きたいのですが、それは難しく、欠けている内容については「夕暮れの中東京駅で書類を抱えてたたずむ自分」を映像化して補います。結果的には間違いは少なく済んでいますが、話を聞きながら人が解読できるメモを取るのは不可能です。

また、番所も苦手です。高校までは幸い概念の理解力が高かったのでよかったですが、授業が終わっても一人だけ黒板が消されるのを待ってもらって板書していたのを覚えています。大学ではもうパワーポイントスライドや番所が鬼のように速く進んでいくので、大学では落第生でした。

読むこと

仕事柄、英語の科学論文をよく読むので読むことには何ら問題はないと思っていました。しかし、実は「しっかりと読めてはいない」ということがわかってきました。

ネットに出てくる「ディスレクシアの文字の見え方」の画像に既視感があったのですが、私の場合は文字の周りに黒いシミが見えて上下左右の周りの文字同士がつながって見えます。

また、読んでいる最中にどこを読んでいるかわからなくなり「迷子」になることがよくあります。その結果、段落の初めから読み直すことを繰り返すことになります。

そして、文章の意味自体が頭に入ってきません。極端な例えをすると、「おばあさんは川へ洗濯に行きました」という文章があったとします。まず、「おばあさん」を読み、おばあさんを思い浮かべます、ふむふむ。次に「川へ」を読み、川を思い浮かべます、ふむふむ、で、誰が?何が? この時点でわけがわからなくなり、「おばあさん」へ戻ります、おばあさんを思い浮かべます、で、おばあさんが何? 結局川へはつながらず、文章はつながりません。それでもなんとか読み返しておばあさんが川にいるところを想像できたとします。しかし、次の「洗濯」を読むともうぐちゃぐちゃです。洗濯?誰が?どういうこと?という感じ。

結局ぼんやりとしたまま読み進めるも、次の「すると大きな桃が…」という文章を見逃し、いきなり「中から赤ん坊が!」を読み始めてしまい、なんのことだよ!!と混乱しながら最初に戻る、という不毛な読みの繰り返しです。

こうして細かく読んでいくと訳が分からなくなるので、私は全体の文脈に従って重要な単語を拾っていく、拾い読みをしています。そうです、文章を読んでいるわけではなく、おばあさん、川、洗濯、桃、という重要ワードだけ抜き出してあとは全体の雰囲気を見てストーリーを把握しています。いや、把握しているというより、つじつまが合うように自分で繋いでストーリーを作り上げている、という感覚でしょうか。

これまでの私はこれが普通だと思っていました。文章の端から端まで通して正確に読むことができる人を見て、自分はなんて怠惰なんだ、みんな本当にこんなにつらいことを我慢して努力して楽しんで読んでいるんだ。と感心していました。

でもそれは違ったんですね。ディスレクシア的性質がそうさせていた可能性が高いのでしょう。

アウトプットすること

書くこととかぶりますが、アウトプット、つまり脳内での思考を言語化することが苦手なようです。

脳内ではいろいろと考えているんですが、それをうまく表現できるような言葉を見つけることができず、言葉や手書きにすると大変にチープでバリエーションの乏しい表現になってしまいます。

なので昔から手紙は苦手ですし、グループディスカッションも苦手です。ところがキーボードだといろいろと書けるのが不思議です。脳内での文字と思考の結びつきが弱いので、それをキーボードに任せられると大変楽です。

具体的エピソード:得意なこと

3次元処理能力

3次元処理能力が突出しているようだということは、小さい頃から自覚していました。小さいころからモノを自分で作ることに熱中していました。特に、レゴと折り紙です。

レゴは買ったキットを組み立てるよりも、自分の頭で作りたいものを思い描き、膨大な数のブロックのはいったバケツから目的のブロックを取り出して作り上げることが大好きでした。そして、家や、城や、機関車や飛行機を自分で作っていました。

また、折り紙も、折り紙の本の図をパッと見ただけで紙の動きを生き生きとイメージできましたし、自分で創作するときには頭の中で紙を折って試行錯誤し、完成できそうだと思ったら実際の紙で試す、ということをしていました。

さらに、大学生になってからは、工学部だったのでCADや工作の実習がありましたが、まずCADの必要性がわかりませんでした。頭の中でできることをなぜわざわざやるのかと。そして工作も課題を与えられるとすぐに構造を頭の中で完成させることができたので、作業は一人独走状態でした。

自分の脳はみんなとそう変わらないのに、どうしてここまで得意なんだろうと疑問でしたが、これがディスレクシアの長所のひとつだったんですね。

今のところ思いつく長所はこれくらいですが、もしかするとディスレクシアの能力を調べていくと、今まで自分がしてきたあんなことやこんなことが、実はディスレクシアの特性に由来するものとわかるかもしれません。

今までのところ私は日常生活に困っておらず、特別な支援も必要ないため、確定的な診断は必要なく、したがってディスレクシアらしいということは自己判断によります。

しかし、特徴は明らかに一致していますので、今後は私は自己診断ディスレクシアとして、もう少し記事を書いていきたいと思います。