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留学というスタートラインに立つまでの話

私は、今現在のカリフォルニアでの3ヵ月間の短期留学を、これから英語を本格的に生活の一部にして生きていくスタートラインだと捉えています。

スタートラインについて私がいつも思うのは、スタートラインそのものと、スタートラインからどうスタートするかについては、みんな教えてくれます。でも、どうやってスタートラインに立つかはあまり教えてもらえません。

留学先を探すことや、応募や手続きの情報はたくさんあります。ですが、なぜ留学という選択に至ったか、という経緯についての情報は少ないです。

英語もそうです。英語でのコミュニケーションは最初は本当に怖いです。日本でずっと生活する限りは、英語は必要ない可能性が高いです。そんな中でも留学という行動に至り、英語生活のスタートラインに立つためには、そもそも英語力が0ではなく、100のうち1くらいにはしないといけません。では、私が0だったものをどうやって1にしたか、それを時系列でまとめていきます。

中学から高校〜英語への出会い、そして、ショックを受ける〜

このとき私が学んだのは、

英語は言語であってテストのための科目ではないこと

私は中学校で始めて英語に触れました。その時の私にとって、英語とは数学や理科と同じく、勉強科目の一種であり、テストで高得点を狙うためのものでした。

私は文脈を読むことが苦手なため国語が苦手でしたが、英語についてはシステム化された暗号を学ぶようで楽しかった記憶があります。

英会話の授業もありましたが、私はその必要性を感じず、そもそも話すことが苦手なため、発言することはありませんでした。

高校でも引き続きそんな感じで、英語はまだ紙の上の存在でした。そんなある日、アメリカの高校との2週間の交換留学プログラムの募集が校内で出ました。外の世界に興味のあった私は、親の勧めもあって応募してみました。

選考は主に学校の先生による面接ですが、英語についての簡単な質問もありました。

「こんなときは何と言いますか?」

といった質問をいくつかされましたが、一切口から発することはできませんでした。ペーパーテストなら頭でう~んと考えて、適切な文章を書くことができましたが、会話として口に出すことは別問題だと悟りました。

さらに、選考に落ちたことで、強烈な挫折感とともに、英語トラウマその1として記憶に残ることとなりました。

大学(学部生)~はじめてのネイティブスピーカーコミュニケーション、それは、英語トラウマその2~

このとき私が学んだのは、

「伝わらない」は悲しいこと

英語そのものは受験のためにたくさん勉強しました。しかし、コミュニケーションとしての英語には触れないまま大学生活をスタートさせ、その後もネイティブ英語スピーカーとは無縁でした。

そしてまたある日、留学経験のある友人から、海外からの友人が数人来るので一緒に空港まで迎えにいかないかという誘いを受けました。私はどんな機会でもとりあえず「はい」といって動くタイプですし、「英語くらいできないと」という謎のプライドもあったので、誘いを受けて迎えに行きました。

そこで初めて、ネイティブ英語スピーカーの人数が日本語話者の人数よりも多い、という状況に遭遇しました。

この状況は本当に怖かったです。何も(本当に一言も)話すことができませんでした。気を遣って話しかけてくれましたが、何ひとつ発することができず、そのネイティブスピーカーの友人は困った顔で何か言いました。もちろんほとんど聞き取れませんでしたが、なぜか「he…confused.」だけ聞き取れました。私がひどく混乱しているように見えたようです。それからは会話の輪に入れませんでした。

この出来事は、プライドを打ち砕かれたと同時に、大きな英語コンプレックスとなってしまいました。

そして気づいたのは、冒頭の事実。重要なのは、文法の正しさや単語の正しさ・適切さではなく、「伝えること」。私は、あなたと会うのを楽しみにここに来たこと、会えて嬉しく思うこと、など何一つ伝えることができませんでした。

手段はなんでもよいので、私はあなたに会えてよかった、という気持ちを伝えたかったのですが、目の前にいるのは目をキョロキョロさせて混乱する何を考えているかわからない人物。せめて笑顔でも見せられれば何かが違ったのでしょう。

大学院(修士)~転機、英語を話さなければ死ぬ窮地~

見出しは大袈裟ですが、このとき私が学んだのは、

英語を話すしかない環境で、伝えることのみを目的とし、なんでもいいから工夫しろ!

私は修士課程で学部とは異なる研究室に進学しました。そのときも以前と変わらず英語とは無縁の生活が始まる(というか英語について何も考えていなかった)と思っていましたが、入ってみると留学生が何人かいて、これからさらに何人か入ってくることを知りました。そして、教授から衝撃の一言。

「留学生が増えてきたし、研究室の公用語は英語にしましょう」

そして衝撃の二言目

「はやぶさくん、今度来る留学生の日本生活をアシストしてあげてね~、もうはやぶさくんが空港まで迎えに行くって言ってあるから」

という無茶ぶり。でも無茶ぶりのうまい教授に限って優秀なんですよね。

それはいいとして、このようにして、英語を話さないと死ぬ状況に追い込まれました。死ぬというのは大袈裟ですが、その留学生にとって私は命綱で、私がいなければ日本で生活が開始できない、一蓮托生な関係でした。

彼とは空港で会って以来、まずは切符の買い方から、電車の乗り方、銀行口座の作成、家探し、国民健康保険への加入など、日本に住むためのありあらゆることを教えました。教えたといっても、英語もほぼ単語だけだったり、身振り手振りを交えつつ、時間をかけて翻訳で変換しながら、たどたどしくても「伝える!」ということのみを目的として交流しました。恥ずかしがっている場合ではありませんでした。

その過程で、日本語であっても表情で通じることがわかりました。「それちがうって!」と日本語で言っても、言葉のネガティブな勢いと表情で「No なんだな」くらいは伝わります。大事なのは「”それは違う”って英語でなんて言うっけ?」と考える前に「違う!」と伝えること。不思議なもので、言葉がわからなくてもネガティブな感じとポジティブな感じはなんとなく伝わるものです。

誰かにヘルプを頼む選択肢もありましたが、もはやこの状況を楽しんでしまえ!と、ある種のゲームのように楽しむ方向で、彼といろいろなことにチャレンジしました。

するといつの間にか彼とも信頼関係を築くことができ、他の留学生との英会話もハードルがぐっと低くなり、意思疎通がなんとかできるようになりました。

私はこの経験で、英会話についてとっても重要な宝物のような経験を得ました。それは、

「英語で話す」よりも前に「伝える」が先にあること

そして

英語を話すしかない環境で「何かにチャレンジし工夫をすること」

です。

例えば、こちらが日本語で、日本語のほとんど話せない相手に話しかけるとします。何も反応がなければ、何を思っているのか、何を考えているのかわかりません。わからないかどうかすらわかりません。こうなると言葉の問題を超えて、心と心の間に大きな壁を感じてしまうかもしれません。

しかし、相手からめちゃくちゃな日本語が返ってきたとしても、笑顔いっぱいで身振り手振りで喜びを表現しているように見えたら、「この人は何かいろんな思いがあって嬉しいんだな、言葉さえあればこの人といい人間関係を築けそうだ」と思いますよね。

また、英語を話すしかない環境に身を置くことそのものがチャレンジといえますが、それだけでなく、受け身にならずに世界に自分から働きかけるように、何か自分から行動を起こすことが、上達の秘訣なのではないかと思います。

行動は何でもいいと思います。留学生の彼とは、ささいなことですが、彼や私が興味をもったことについて、勢いにまかせていろいろなことをしました。

そのおかげで、普段は見ない環境の賃貸住宅を何件も見たり、宗教と食べ物の関係性に詳しくなったり、いろいろ面白い経験をしました。

先に述べた「伝える」が先にあるように、「楽しむ」が先にあるんだと思います。

研究職につき、スタートラインが見えてくる

研究職となり、英語論文を読んだり書いたりすることや、海外学会で発表することも増え、英語に触れる機会がこれまでより格段に増えました。すると、もともと広い世界に興味のあった私に、海外で研究生活を楽しむ、というおぼろげな道が見えてきました。

そのとき、今回の応募が目に入り、これがスタートラインだ!と直感しました。このときはもう私の中の大きな英語トラウマはとてもとても小さくなり、応募を決断するのに時間はかかりませんでした。

これからも、この短い3ヵ月間の変化を記録していって、新たな発見や経験を楽しみたいと思います。